烈女松江と武士道

 なぜ松江は自ら死を選んだのだろうか。現代の日本であれば、深夜に集団で暴行されそうになった女性が刃物を用いて相手を殺傷したとしても、正当防衛として刑罰の対象にはならないのが判例からほぼ間違いないところであり、法的には常識と言えるだろう。しかしそのような常識は近代以降の罪刑法定主義と男女平等、基本的人権など制度および思想面の進歩と、科学捜査を可能にした技術面の進歩とが合わさって実現している事を思い起こさなければならない。
 江戸時代における刑罰や捜査の制度がどのようなものであったか、それが松山藩で、元大洲藩士の浪人やその子女に対してどのように適用されたかというのは想像の域を出ない部分が甚だ多い。しかし現代の罪刑法定主義に対して江戸時代には犯罪に対する量刑は一般には非公開であった。立証も今と比べて証人の比重が非常に大きく、松江の事件であれば岩蔵の仲間二人が松江に不利な証言をすれば、松江は遠島か追放、当然井口家を巻き込む事になっただろう。もしも真実が明らかにされて無罪であったとして、当面は入牢して調べを受ける身になるので、それならばいっそ武家の娘らしく自害するべきと考えたのだろう。
 つまり、松江が死を決意した原因は一つに当時の司法制度の未発達があり、もう一つは教育によって深く内面化されていた武士道と家父長制がある。言い換えれば武士道と家父長制が罪のない娘を殺したのであり、松江の行為を顕彰するのは武士道と家父長制を称揚する意味を持つ。
 「烈女松江顕彰碑」の碑文にも「怒りに我を忘れて父母の身を危うくしたのはこれ以上ない親不孝である」と土下座をして死を望んだ様子が書かれている。それを父瀬兵衛は受け入れ首を刎ねるが、後に松江の弟が大洲藩に士官し井口家は家禄を取り戻したと話は続く。松江が顕彰された理由というのは、武家の娘らしい振る舞いそのものに加え、家禄を失っていた井口家がそれを取り戻すきっかけを作った結果を称えられてというものである。実に家長にとって都合の良い話としてまとめられているところに嫌悪感を禁じえない。江戸時代には家庭内にも主従関係が行き渡っていたとされており、特に武家の家庭ではそれが顕著であっただろうと推察される。つまり家長瀬兵衛が主人であり、子女松江は家臣であり、松江の死は主人に迷惑をかけぬように切腹する家臣の振る舞いに擬せられる。
 顕彰碑が出来た明治30年代は、日清日露戦争の合間であり、海外列強といかに伍していくかという課題、また日本の民族性とは何かという問いに対して武士道が着目されており、新渡戸稲造の「武士道」がアメリカで出版されたのが明治32年(1899)、翻訳出版されたのが明治41年(1908)の事であった。天皇を元首と戴く國體の確立と国民皆兵のため、家父長制と儒教的、武士道的思想を普及するための身近な歴史的偉人として松江は顕彰され学校教育に取り入れられてきた。その名残は今も続いている。