烈女松江について

愛媛県松山市の西部、瀬戸内海に面して三津浜という港町がある。三津の由来は天皇が船を付けた「御津」からとも言われており、古くからの良港であり漁村であった。
文化10年(1813)、この地で一つの事件が起きる。長男の諍いによって大洲藩を追われ松山藩領内の三津浜で浪人をしていた井ノ口瀨兵衛という男がいた。妻と二男三女の家族が、主に瀨兵衛の剣術指南で糊口をしのいでいたが、その門徒に岩蔵という悪漢があった。次女松江の美しさにぜひ我が物にしたいと望んだが、その粗暴さからか松江も父親も首を縦に振らぬので、瀨兵衛の留守を狙って誘拐婚を企て、悪友を連れ家に押し入った。はじめ窘めて説得した松江はとうとう襲いかかろうとする岩蔵を脇差で切り殺してしまう。帰宅した父瀨兵衛に事の次第を伝えた松江は、いかに悪漢といえども人一人殺めた罪の償いに自害すると言い、瀨兵衛は自害では後に悪い噂が立つかもしれぬから自分が始末を付けると言い、その夜三津の浜辺で18歳の松江は父親に首を刎ねられた。事の顛末を聞いた松山藩主は父娘とも立派な武士の振る舞いと賞し、ぜひ瀨兵衛を召し抱えたいと大洲藩へ打診をした。一方で大洲藩の方でも瀨兵衛の評価は高まり領内の住居を許すという恩命により三島町(現在の伊予市内)へ一家は転居し、瀨兵衛は文政11年に死ぬまでそこで暮らした。瀨兵衛の次男で松江の実弟長左衛門は大洲藩へ取り立てられ、松江の余薫によって出世したとも言われている。
全く理不尽で悲しい話であるが、当時から戦前戦中にかけて、この話は儒教的価値観の下で大いに賞賛を集めた。現在一般に確認できる最も古い出版物として、明治34年(1901)に発行された田中好賢(よしたか)の「烈女松江」が愛媛県立図書館に蔵書されている。表紙には「松山 松操會作歌及作曲」とあり、判で押したような赤字で「建碑義捐出版」とある。顕彰碑の寄付集めのためか、その返礼のためかに配られたものの一部かもしれない。扉絵の部分に松江の墓とされた写真があり、今と同じと思われる墓石に小さな屋根がかけてあり、両側に僧侶らしき人物が立っている。この初版時点では顕彰碑は存在していなかったようだ。
この本には絵葉書が添付されており、絵は列女松江顕彰碑の碑文である。碑文の撰は東京大学文学部、東京高等師範学校、女子高等師範学校で教授を歴任した南摩(なんま)綱紀(つなのり)。田中は明治34年(1901)から東京高等師範学校の漢文科で学んでおり、南摩とはその縁ではないかと思われる。南摩は宮中で「中庸」や「論語」を進講する程高名な学者でありながら、頼まれると快く碑文を寄せる質だったそうで、全国に無数に撰文があると言われる。写真の下には「愛媛県温泉郡味生村大可賀墓地にあり」と記されている。大可賀墓地は地図によれば女子師範学校の南にあり、現在スーパーのフジ松江店の辺りではないかと思われる。
石碑は明治36年(1903)に田中好賢が主導し、松操会が主体となって建設された。松操会は愛媛高等女学校校長の渡部明綱を主幹としていたと影浦の論文にある。
明治44年(1911)に訂正再版された「烈女松江」では著者が田中好賢と影浦直孝の共著に変わっている。これは国会図書館に保存され、デジタルコレクションとしてインターネット上でも閲覧できる。本書によれば浪人であった瀬兵衛には葬式を出す余裕がなかったために、家主であった田中喜兵次(岩次郎の祖父)らが負担し、古三津の法雲寺があげ過去帳にも記載があるそうだ。
大正3年(1914)には「薩摩琵琶歌烈女松江」が田中影浦の共著で発行されているが、田中好賢は翌大正4年(1915)に没している。田中好賢は三津小学校訓導や県立高等女学校の助教諭を勤め、その後東京高等師範学校に入学し、広島高等師範学校付属中学校教諭を死亡するまで勤めた。蟹江義丸の助手を務め、「孔子研究」の編述を行った。
大正7年(1918)には愛媛県公会堂で松江表彰琵琶弾奏会が開かれ、景浦はそこで井口松江について講演を行った。その内容を増補する形で翌大正8年(1919)に伊予史談の16号で論文「列女松江」を公開している。
昭和4年(1929)に三津浜町役場が発行した地域を紹介する冊子「三津の面影」には列女松江の遺跡(女子師範学校南)として写真が掲載されている。ここでは明治34年(1901)の写真と比べて墓石にかかっていた屋根が少し立派になり、お堂と呼べるような設えになっている。そしてすぐ右隣に今と同じ立派な顕彰碑が聳えている。この「三津の面影」に添付されていた「三津浜町平面図」によれば、女子師範学校敷地のすぐ南側に松江遺跡という表記があり、大可賀墓地もこの一帯にあったのだろうと思われる。
昭和17年(1942)には大政翼賛会愛媛県支部から愛媛先賢叢書の7巻として「烈女松江」が発行される。これの著者は景浦直孝一人である。
景浦直孝は明治8年(1875)~昭和37年(1962)松山生まれ。「愛媛県を中心とする歴史及び地理の研究並びに資料を蒐集保存すること」を目的に伊予史談会を創立した。松山子規会の会長でもあった。明治27年から昭和13年まで小学校、高等女学校、中学校の教諭を歴任した。井口松江の伝承を世に広めた立役者である田中好賢と影浦直孝は二人共学校教員であり、教育勅語に則った教育政策下で進められたのではと推察される。

三津公園にあった松江堂は「烈女松江奉賛会」という団体により”烈女の貞烈を長く後生に伝えんとの念願の下に”建設された。この時尽力した人物として初代会長の桂政尾氏、市議会議長中西月龍氏(中西建設創業者)、市議会議員松本清一氏の名が記録されている。竣工式には建設大臣も務めた地元選出の関谷勝嗣議員や松友副知事も参列し、”信者”200人が参集したとある。小原六六庵による漢詩をはじめ、多くの人の詩歌の題材とされ松江堂へ奉じられている。
明治43年(1910)から終戦直前まで三津浜に置かれた女子師範学校の影響は、烈女松江の伝承を広める大きな役割を果たしたと言えるだろう。師範学校とは学校教員を養成する公立の学校であるが、制度の変遷によってはじめ県立として、後に官立と変わった。三津浜への女子師範学校の設置は日露戦争の直後であり、近い未来の日中戦争、大東亜戦争(アジア太平洋戦争)に向かって挙国一致で富国強兵と臣民教育が進められていた時代である。当然、愛媛県女子師範学校も教育勅語に則った教育が行われており、教育勅語と烈女松江の伝承は儒教思想を土台としている点で結びついている。烈女松江の伝承は修身教材に用いられていたと思われ、愛唱歌として「烈女松江」が生徒達に歌われていたという。そうして松江を地域の身近な”偉人”であると教育された女生徒達はやがて女教師となり、同じように地域の子どもたちへ松江を”偉人”あるいは”婦人の鑑”として伝えたのだろう。「烈女松江」の書籍が教科書として採用されていたなどの記録は残っていないが、師範学校の指導要領の中には修身科目においては地域や時期に応じて幅広く教材を採用するように推奨している。まさに松江の話はうってつけだったと言える。しかも松江の墓と顕彰碑は女子師範学校の裏手にあたる大可賀墓地の通りに面した場所にあったのだ。この女子師範学校は初めの3年間は原則として寮生活であり、当時であれば結婚適齢期とされた女子が親元から離れて生活をしていた。そのような環境を鑑みても、自身の貞操を命がけで守るのが女子の鑑という教えはある意味で保護者や地域社会の要請に適っていたと考える事もできる。
女子師範学校で”女子師範の鑑”と讃えられた影響は昭和の後半まで残り、昭和45年(1970)に区画整理によって大可賀町は松江町とその名を変え、とうとう一人の不幸な女性の名が地名にまでなってしまった。その後さらに機運は高まり、昭和49年(1974)には烈女松江奉賛会により、鉄筋コンクリート製の「松江堂」が建設されるに至った。かつて大可賀の共同墓地にあった松江の墓と高さが2mを超える立派な顕彰碑は、いつの時点かは不明だが三津公園の敷地内に移設され、お堂を設えられた。大可賀墓地にあった時からお堂があったのだから、移設をしてそれを無くするのは忍びないという気持ちが、松江を敬う地域住民にあったのだろうかと想像する。
 そもそも「烈女」とは儒教において理想とされる貞淑さや自己犠牲を示した人物を顕彰する尊称の一種と言える。現代の日本では滅多に使われない言葉であり、むしろ朝鮮半島に烈女を称える碑や門が多く残り、儒教文化の浸潤度の違いの一端も見える。15世紀の朝鮮においては死をもって「烈」と「貞」を守り抜く女性たちを「列女」という名のもとで賞賛し、その一族には国から「紅箭門」や「烈女碑」、「烈女門」などが下賜された。その名誉は一族のみならず、村全体の光栄と自慢となった。(儒教社会を生きる女性たち)
儒教は孔子を祖とする思想、道徳、宗教の混交したものだと言えるが、為政者が人々を統治するために用いる一連の思想体系と見る事もできる。日本において儒学や陽明学が明治期に興隆したのも近代国家を成立させようとする学識者の運動とも言えるし、元田永孚は儒教思想を天皇に語らせる形式で教育勅語を起草したと言われる。教育勅語には家族を敬うなど普遍道徳的な部分もあるが、最終的には国家と天皇のために戦争で死ぬ事を厭わぬ臣民を作ろうと企図されていた。これは全く現代の人権意識や民主主義の感覚から遠いものだが、今でも一部の国会議員は教育勅語を評価できる部分もあるなど時代錯誤な認識をしており、市民の一人一人が儒教的な思想が政治的に浸透させられる事への警戒感を失ってはならないと思わせられる。儒教全体が悪しき思想とは言えないまでも、明治維新から昭和の敗戦までの時期において、儒教的な思想は天皇を元首とした國體思想を理論的に下支えするために利用されてきた歴史的経緯があり、当時の国策に絡む儒教的な思想は結局のところ軍国主義に繋がっている。
 現代においてこの「烈女松江」を讃える問題点は多くあるが、一つは性暴力の被害者に対する心理的な悪影響が考えられる。自らの性的純潔さを守るために止むに止まれず相手を切りつけ、自らのお家の名誉のために自害をしたのが理想の女性像であるならば、過去に性的暴行を受けた経験者はどのように感じるだろうか。現在平穏に暮らしていたとしても、それは理想から外れる不名誉な生だと思い込まされてしまわないかを憂慮しなければならない。いわゆるセカンドレイプと呼ばれる、性暴力の被害者を心無い言動によって二重三重に苦しめる象徴に「松江堂」がなってしまうのではないかと危惧をする。
 これに関連して、「烈女松江」伝承を無批判に伝え、あるいは「松江堂」を設える事で松江を称揚する事になれば、家父長制の肯定、女性による自己決定権の否認と捉えられるおそれもある。
松江伝承のきっかけになった岩蔵の狼藉だが、江戸時代には各地で嫁盗みなどと呼ばれる略奪婚(誘拐婚)の風習があったと言われる。松山や三津地区ではっきりと記録が残っている訳ではないが、九州や大阪の例が折口信夫、柳田國男らによって書き残されている。それによれば嫁盗みにはいくつか理由があって、まさに誘拐に等しく女性の意思を無視した暴力的なものと、家同士の義理事によって盗まれた体で嫁にやるのと、金銭的な理由で持参金などが出ないので盗まれた体で嫁にやるのと少なくとも3つに分けられたそうだ。おそらく松江の話はその最初の、最も暴力的な嫁盗みが女性の抵抗によって失敗した例なのではと想像される。しかし、もし岩蔵の略奪婚の企てが、松江の父親瀨兵衛も承知の上だったとすれば、これは全く違う話になってしまう。柳田の書いた3つの例の3つ目、家が貧しくまともな婚姻が難しいので攫われた体で嫁に出そうとしたのだとしたら、そして予想外の結果に慄いた瀨兵衛が事を収めるために松江を殺し、松山藩から大洲藩へ逃げ戻ったのだとしたら、美談どころかまるで怪談のような後味の悪い話だ。しかし松江の葬式も近隣の援助によってされたと伝わっているので、江戸時代の武士階級に求められた持参金の類を瀨兵衛が用意できなかっただろう懐事情は想像に難くない。18歳と嫁入り時になった松江の嫁ぎ先に瀨兵衛が頭を悩ませて一計を案じたのだとすれば、武士の振る舞いとして賞されるべきものでは決してないだろう。
南摩綱紀の碑文の終わりには「於是國俗一變淫風頓熄復」とあり、「三津の面影」ではその部分を「此ことあつて以来当時の淫風は頓に改まつたさうであります」と松江事件の影響を記している。この”当時の淫風”が何を指しているのか明確ではないのだが、松江の行為には淫らと評されるべきところはなく、やはり岩蔵が企てた略奪婚がそれを指しているのではと思われる。明治後半の価値観からすれば野蛮で淫らな行いと言われたのも納得できるものではある。
明治の人にとって、武士の家柄というのは相当の憧れを持たれていたのだろうと思われる。柳田國男の武士気質という文に“四民平等といふことも大きな効果をもち「もう侍と百姓とはちがいひないのださうだ」といふと、みな一斉に大急ぎで侍の方の生活をしだした。”とある。明治から昭和初期の人々が抱く武士への憧れというものが、松江伝承が広まり、今まで伝わった要因の一つかもしれない。

<参考文献>
田中好賢 著「列女松江」
田中好賢、景浦直孝 共著「列女松江」
伊予史談16号 影浦直孝 著「列女松江」
三津浜町役場 発行「三津の面影」 
金多希 著「儒教社会をいきる女性たち-「列女」と「七去之悪」を手がかりとして-」
渡辺周子 著「明治期における「少女」の国民化過程の考察-「純潔」規範を事例として-」
柳田國男 著「故郷七十年」